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2011年 10月 16日
* résumé en français en bas de page
昨日まっすぐな日本人カップルに出会った、という会話から始まった。隣の県のドルドーニュで日本食を提供している友人の発言、堅苦しいことなく禅を伝えたいというまっすぐな彼ら、そして、その和食の女将は坐禅を企画する。それが本日であった。 私はすぐに興味を示す。日本では坐禅に全く縁のなかった私。だが、もしかしたらいい機会なのかもしれない。また、まっすぐな彼らに会ってみたかった。 日常の生活の行い自体が禅。ということは、この坐禅を組みに行こうと目的地に向かう車の運転も、その禅の行いの一つということになるのであろうが、禅の現場に入る前に、その近くの大きな街で大豆をどうしても購入したかった私は、ゆっくり運転の前の車にいらいらしていることに気づく。これでは先が思いやられる。 幸いにも遅れることなく、彼らに出会う。チーズを消費するためだけに一昔前フランスにやって来てしまった自分もある意味まっすぐな人間だと思っていたが、自分のそれとはどうも違うようである。 足を組んで行う座禅。歩きながらするもの。簡単と言わずも苦にはならないものであったのだが、一番肝心なことが最後まで出来なかった。 雑念を頭の中から無くす、無にする。腹式呼吸を静かにしながらゆっくりと吐いてゆく を、繰り返す。それが出来そうで出来ないのである。 これが打たれた合図と共に坐禅が始まる。 Ce sont des bâtons avec lesquels il signale le commencement de Zazen 無心になった時のことを思い浮かべて・・・と、禅に対する助言をまっすぐな彼は言ってくれたので、4年4ヶ月前に、鍬で庭の土を無心で掘り返したことを思い出す。あの時は本当に何にも考えずに朝から堀り日が暮れても掘っていた。 それから自分の坐禅に少し変化があったのかもしれない。でも、私にとってはそう簡単には為せる業ではなかったのが正直なところである。 轆轤を引いている時、土を練っている時、掃除をする時。。生活の様々な場面で、今日過ごしたわずかな時間が反映される時が来る、私はそう信じたい。 先週焼いた冒頭の写真の小さな無釉の半磁器、本日の私のささやかな気持ちとしてお渡しする。奥深いひと時であった。 J'ai participé à Zazen qu'une amie a organisé avec un moine bouddhiste et son épouse. Par contre, je n'ai pas de religion. La posture n'était pas simple mais je pouvais me tenir droit à peu près. Le problème, c'était la façon d'expiration et de vider la tête. Zen n'est pas uniquement pour Zazen. Zen est dans chaque geste de la vie quotidienne. Je crois fortement que le moment que j'ai partagé avec eux aura un sens un jour pour ma vie, quand je fais le tour, quand je pétris de l'argile, quand je fais le ménage... Un petit remerciement, je leur ai offert une petite coupe sans émail.(la photo de début)
by angenaop
| 2011-10-16 07:34
| +陶 céramique en gros
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